寛永13年(1636)に築造された出島は、安政6年(1859)、オランダ商館が閉鎖されるまで218年間にわたり、わが国で唯一西欧に開かれた窓として日本の近代化に大きな役割を果たしてきました。
明治以降、大規模な中島川の変流工事と埋め立てが行われ、一度その姿を無くしましたが現在、建物の復元が進んでいます。
建物の復元により、当時の出島の町並みの体験や、当時の人々の暮らしぶりを知ることができます。
出島が歩んだ歴史は日本の近代化の歴史でもあります。
是非、ごゆっくりお楽しみください。
また、出島では歴史スタッフによる出島ガイドツアーも開催しています。詳しくはHPでご覧ください。
安政6年(1859)に、横浜、函館とともに開港した長崎には異国の商人たちが多く集い、華やかな時代を築きました。
長崎港を見渡す丘陵地には日本風の屋根瓦に覆われた洋風建築が立ち並び、多くの異国人たちの生活エリアとなった長崎外国人居留地が誕生しました。
スコットランドの貿易商人、トーマス・ブレーク・グラバーの邸宅をはじめ3つの国指定重要文化財の住宅や、長崎市内から移築した貴重な洋風建築6棟を見ることができます。
居留地時代の面影を今に伝える石畳や石段、長崎港を一望できるロケーションと、歴史、文化の香りに包まれながら、貴重なひとときをお過ごしください。
また、グラバー園では歴史観光ガイドによるグラバー園内ツアーも開催しています。詳しくはHPでご覧ください。
「亀山社中」は、1865年薩摩藩や長崎の豪商・小曽根家の援助を受けて、本龍馬とその同志20数人により結成された日本初の商社兼私設海軍です。
貿易会社と政治組織を兼ねた「亀山社中」は、徳川幕府の倒幕を目的とした活動を行うとともに、グラバー商会と銃器の取引を開始し、藩に武器を卸す商業活動や物資の輸送や航海訓練なども行いました。
また、険悪だった薩摩藩と長州藩の関係回復の仲介をし、薩長同盟の締結に大きな役割を果たしたと言われています。
当時活動の拠点として借りていた民家が、もともと亀山焼の職人の住居として使用されていたため、その地名の「亀山」と、仲間を意味する「社中」をあわせて「亀山社中」と呼ばれました。
老朽化していた遺構を当時に近い形で復元し、2009年から「長崎市亀山社中記念館」として一般に公開しています。